2007年09月04日

森 悟

森悟(もりさとる)、これは僕の祖父である。

森悟の父は愛人と満州へ渡った。
幼き日の悟は家族がため、これを追う。
しかし援助を受けることは叶わなかった。

父の援助を受けられぬ森家はかつての栄華を失い、疲弊した。
それから祖父は猛勉強を重ね、戦中にも関わらず大学へ進学。
学徒出陣の一歩手前で、危うく戦死を免れる。

やがて税理士の免許を取り、税務署に勤める。
質素倹約を旨とし、「金が無いのは首が無いのと同じ」を座右の銘とした。
やがて四国から賢妻をむかえ、森家の建て直しを図る。

一代、それも十数年で貯金をなす。
念願の土地と一戸建てを購入し大阪から、奈良へと家族を連れて引っ越してきた。

酒に飲まれる点と、人と和さない点が欠点であった。
相手が近所の人であろうがやくざであろうが退かなかった。
ちんぴら相手に拳をふるい、血だらけで帰宅した夜もあった。

しかし欠点も多かったが、長所はそれに勝った。
夢の中でも仕事をするくらい、毎日毎晩仕事に明け暮れた。
二時間半をかけて通勤を続けたこともある。
そして晩年、妻を失ったときは、今も残る衣服にしみた妻の香りに涙したそうだ。

家族を愛した男であったが、その愛とは裏腹な横暴も目立った。
そもそも甘言や世辞を得意としない人間。子供を叱るときには、娘といえども手をあげ、他人からの電話には常に喧嘩腰であったのである。
大人になってからの母が実家の玄関口からたたき出された光景を覚えているが、ともかく気難しい人物であった。

ただ、例外はあった。悟は孫の勝寛を何よりも愛した。
暇が出来れば、妻が亡くなった後、一人暮らしになった自宅に勝寛を呼んだ。
高価なおもちゃを買い与えた。寿司を頼んだ。
そして遊園地に手をつないで行った。

勝寛はまだ幼く、かかる時間を貴重と知らなかった。
往復はがきで手紙がきても、返事すらしなかった。
電話を疎ましく思った。
ただ、勝寛は買い与えられるおもちゃや他の品々に興味があった。

中学生くらいになり、ようやく話ができるようになった。
だが、ときはすでに遅く、悟には病魔の影が忍び寄っていたのだ。

今から10年前、大阪の病院にて死亡。
人と争うために生きてきたような男だった。
人と和すことをどこか望んでいたのかもしれないが、全てを疑った生き方をした。
青年期の混乱を恥じるかのように、堅固な人生を選んだ。
人に嫌われ、離れられた。
だが、けして見下されてはいなかった。その確実な仕事は数十年しようとも一糸も乱れず、幾度と表彰状を送られる才能があった。
まさに日本発展を税という側面から支えた人物でもある。
そして森家復興の祖として、多くの財産を残した。

語らず、譲らず、笑わず。晩年は孫とわずかな交流を果たした外はさみしいものとなった。
ただ、今も子孫の間では彼にまつわる幾千の小話がなされる。
彼は死して、年をおうごとに愛されている。

死後、祖父の家掃除に行った。
今にも祖父がそれそこから出てきそうな雰囲気が今も残っていた。
壁に恐々と飾られた天狗の面。
黒光りする時代物のピアノ。
学生野球時代のセピア色した写真。
歴史関係の書物、使い古した和服。

押入れの奥の奥に紙片があった。
母がそれに気づき、手にとって見る。
どうやらどこかの出版社への書きかけの手紙のようである。
故人の書いたものであることだし、中身を読んでみた。


そこには達筆の毛書で、こう書かれてあった。


「毎号楽しく拝読しております。貴社に対する要望ですが、UFOや宇宙人のことについてもっと多くの記事を載せてください」
posted by 映画委員長 at 03:08| 奈良 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
やべ、なんかすげぇ後にひきます。
ニヤニヤしてまう。
Posted by デブサラリーマン at 2007年09月05日 21:01
>デブサラリーマン
そうでしょう。意外と自信作やったんすけどね(笑)
すべてノンフィクションです。
Posted by 映画委員長 at 2007年09月05日 23:45
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