2007年02月07日

あの頃の僕ら(市大の思い出)

七年前の僕は、センター試験の点数が悪く、ボーダー点マイナス55点から、神戸大文学部受験のための勉強をがんばっていた。



と言っても、好きな数学以外は何もしなかった。僕には確信があったからだ。本番で、数学でボーダーマイナス点を取り返す。そして、国語で稼ぎ、英語のミス以上の点をとれば、神戸大文学部は合格する。確信があった。



当日のこと。僕は得意の数学で計算ミスをした。目論見は完全に外れてしまった。何万回と使った解の公式を、僕は間違えた。数学の試験が終わった時点で、「もうだめだな」と思った。



神戸大に不合格した僕は、市大文学部後期に出願した。小論文だった。誰の言うことも聞かず、自分らしさを目いっぱい表現した論文だった。しかし、それは評価されなかったのだ。はっきり言って、読みにくかったとしか思えない。



友達と卒業旅行に行った。市大の結果待ちだった。結果がメールで送られてくる日に僕は帰宅した。絶大の自信があった。近くの予備校に、「来年から講師で雇ってください」と言いにいったほどだ(現在は晴れてそこで講師をしている)。親にも、「ほんとは神戸大がよかったけど、市大を好きになるわ」とも言った。



しかし、ボーダーマイナス40点からの挽回は不可能であった。メールに、僕の番号はなかった。そのとき、電話が鳴った。先に京大に合格を決めた友達からの電話だった。



「河合塾でおつかれパーティーやってるんやけど、こいよ」



僕は支度をして、出かけようとした。親は、なさけない、と言った。僕はほっといてくれ、と言い残して家を出た。実に自分でもなさけない一言だったと思う。



僕はパーティーを途中でぬけだし、河合塾の屋上で一服つけた。フーッと煙を吐き出すと、なんだか春の空がかなしく見えた。また、一年も勉強しないと。嫌だなあ。僕は、二度と大学になんて受からないような気がした。



それからだった。僕の塾の生徒、家庭教師の生徒、親戚…市大を受けた人たちはことごとく市大をすべった。それは、関係のある僕にとっても、非常に残念なことであった。市大は、「鬼門」となったのである。



僕はそうそうに大阪大学に合格した。しかしそれでも、市大には受からなかったような気がする。つまり、それほどまでに、あの落胆はひどいものだったのだ。



それから六年の月日が流れた。僕はいろんなことを学び、少しずつ成長することができた。そして、「鬼門」市大の法科大学院を受験することになる。



文章を書く、ということには、インスピレーションもあるし、背景への知識も必要になる。体調も関係するし、モチベーションも必要だ。全てがそろったのが、市大の法科大学院小論文であった。流れるように言葉が出てきた。僕の文章の集大成がそこにあった。



そして僕は市大に合格した。思えば、悪夢の40連敗をきした出版業界編集職の就職活動。神戸大、阪大の入試失敗。一年間のフリーター勉強生活。僕は、あのときのように、全ての自信をなくしていた。そう、市大に落ち、河合塾の屋上で煙草をふかしたあの日のように。



でも、市大法科大学院受験の帰り道、夜道は鮮やかだった。大阪の街並みが、十代の頃のように息づいて見えた。僕は、ついにつかまえた。思い出した。勝ちの味を思い出した。



引き続き、阪大に合格。そしてそれを皮切りに、知人も市大関係に合格していった。「鬼門」は「福音」に転じたのである。



あの日、すべての自信をなくした七年前の冬。そして、勝ちをついにつかまえた一年前の冬。この六年のブランクは、市大にはじまり、市大に終わった。そう、市大はその意味でも思い出深い大学となったのである。



今度、試験が終わったら市大に遊びにゆこう。食堂でご飯を食べて、春の日差しを楽しもう。人生には勝ちと負けがある。勝ちへの気持ちを消さなければ、いつかは鬼門を破ることができるだろう。



あきらめないこと。勉強も、恋も、スポーツも、仕事も、なにもかも。負けても、たとえ自分の愚鈍や怠惰により負けても、それが欲しいのならば、あきらめない。
posted by 映画委員長 at 13:13| 奈良 ☀| Comment(3) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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